8月6日に想う(その1)。
今年は終戦70年目ですね。
先日8月15日は終戦記念日。
そして8月6日は、広島に原爆が投下されて、70年が経った日でした。
毎年この時期になると、私は高校生時代のことを思い出します。
それは今から約40年前になります。
私が高校1年生の時のことでした。
私の出身高校は、広島国泰寺高校です。旧制広島第一中学校が前身で、広島県下の秀英が難関を突破して入学されました。
ただ、私が入学した当時、昭和50年頃には、公立高校はとにかく平等な学力を保持するように学校群制度ができておりました。中高6年一貫性の私立高校が大学進学には有利な授業内容で、中学から一貫性の私立を受験し高校受験なしで、大学受験を目指す方が大勢をしめていました。
とても優秀な先輩方を輩出した旧制一中を前身とした高校に、私のようなものが入学でしたのは、こんな経緯があったのです。
さすがに、歴史のある高校で、天皇陛下が来校された記念碑や、いろんな記念碑がありました。ただ、夏休みが近づいた7月中ごろから、線香がたかれて、自分の祖父母ぐらいの方が涙して、ひとえに合掌されている場所がありました。ここは原爆で亡くなられた当時の広島一中の先輩方の名前が刻まれた碑でした。
被爆二世の自分にも関わりがあることがわかりましたが、一心に祈りをささげられている方の後ろを通るときにはただ、こうべを垂れて通り過ぎることしかできませんでした。
また、いろいろな先生がいらっしゃいましたが、第二次大戦を広島で経験された先生も多くいらしており、原爆について様々なことを教えていただきました。
その中の1人の先生は、地理が専門の先生でした。
何故か、地理がほとんど授業されず、いろいろな国際情勢や、今の我々の勉強姿勢を、指摘してくださいました。
もともと呉一中、現在の呉三津田高校の出身で、終戦の8月6日を中学2年生の時に迎えられたそうです。
そして、今聞けばとても驚くような話を堂々となさっていました。試験の問題も難問で、例えば、「モスクワの緯度と経度を書きなさい」というような問題がでて、赤点(5段階評価の1です)もどんどんつけられました。
旧制中学の勉強の仕方、それは、「バカは寝るな。」
これを何度も繰り返されていました。
第二次大戦当時、私の母校の高校とその先生の高校は、ライバル同士にあり、海軍士官学校や、陸軍士官学校の入学者を競い合っていたそうです。
そして、その入学者数が、広島の方が多ければ、先輩から何故か後輩の先生が鉄拳制裁を食らったそうです。
先生は、私が入学した昭和51年にも、「夢をもう一度」と、有名大学への入学者数を増やそうと、頑張っておられました。地理の先生なのに、何故か英語の教科書の訳を夏休みの宿題に出され、高校に入り英語の難しさに手を焼いているときに、
「1年生の教科書を全部訳して来い。」と言われたことがあり、みんな度肝を抜かれました。
地理の先生の授業なのに、教えていただいた内容で地理のことはほとんど覚えていません。
その代わり、私が1番頭に残っているのはその先生が仰った一言です。
「もし私が許されるなら、ホワイトハウスに原爆を落としてやりたい。これが今の私の1番の望みです。」
今であれば、このような発言は、とても許されるものではないと思います。
しかし多感な高校生たちにとっては、とても衝撃的な一言でした。
どれだけ原爆が日米双方を苦しめていったかということが、心からわかった気がしました。
当時の先生の発言が、良い発言なのか、悪い発言なのか、私に判断する力はありませんし、もちろん暴言だということは、私に判断する力はありませんでした。
今の世界情勢を見れば、まさに爆弾発言だったと思います。
ただ、先生の悔しさは、強く伝わってきました。そして、二度とこんな惨事を起こしてはならないと教えていただいたと思います。
今、少し涼しくなったころですが、このような発言をされた先生が、まざまざと思い浮かべられる、今日この頃です。



